648 blog

kyamanekoです。IT、思想、哲学、心理学などの記事を書いています。

個人情報漏洩させたらこうなった - vol. 52

実録! 個人情報漏洩させたらこうなった

イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……

※本作はフィクションです

 

関連

vol. 52

 矢口は家に帰ると、バッグを置いてエアコンを入れた。
 そして、そのままの格好で小さなベッドに横たわった。
 部屋やベッドは、いつもながら湿っぽい臭いがした。
 まだ日中だったが、カーテンを閉めていたため深海のように暗かった。
 周辺住民が市街に出ているためか、静かだった。

 矢口は横臥して、由加里の話を思い出した。岩倉から聞いたという、エビデンスの話。
 それから、虻沼の顔とタバコ臭い車内を思い出した。裏切ったら、東京湾の底の龍宮城に行けるかも知れない。
 次は、GRシステムの面接を思い出した。大島と佐川と由加里が面談相手だった。
 記憶はもっとさかのぼった。
 専門学校のころは、社会に出るのが怖かった。
 そして高校時代、中学時代の記憶。
 基本的に不幸だった。
 これからも似たようなものだろう。
 それでも、ソフトウェア開発の仕事に出会えたことは救いだった。

 昔なら社会不適合者として追いやられていただろう。
 そんな矢口にとって、唯一他人に認めてもらえる場所が、ソフトウェアの世界だった。
 子どものころから、物を作ったり、組み立てたりするのが好きだった。
「あったかいなあ」
 と、父親が言った。
 矢口は肩まで温泉の湯につかり、父親を見上げた。父親の眼鏡は曇っていた。
 となりの母親が言った。
「ちゃんと、『とお』まで数えなさいね。ゆっくり」
 矢口は目をつむり、湯に手足を広げて、数えはじめた。
「いーち、にーーい」
 そのときだった。
「なんで、こんなことしたの!」
 その母親の声で、矢口は顔を上げた。
 気がつくと、薄暗い部屋で、母親と対面して正座していた。
 父親はいなかった。
 母親は右手を振り上げ、矢口の頬をたたいた。
「泥棒なんかを、育ててきた覚えはないわよ!」
 矢口は言い返した。
「ほんとうだって! 盗んでないよ」


 そこで矢口は目を覚ました。
 カーテンの向こうは夜だった。
 夕食の匂いが漂う中、隣の部屋のテレビの音が漏れ聞こえてきた。
 ゴールデンタイムの音楽番組か。
 寒かった。
 エアコンの設定温度を上げて、毛布を引き寄せた。
 寒すぎて頭が回らなかった。
 どうやら腹が減っていた。
 しばらくぼんやりしてから、目元をこすって目やにを取り、立ち上がった。
 近所の中華料理屋か、少し離れた定食屋の2択だ。
 矢口はコートをはおって玄関へ向かった。4年前に買った、ミリタリー風のモッズコートだ。

 玄関へ近づいたとき、ドアの向こうから足音がした。
 挨拶が面倒だから、相手が通り過ぎてから外へ出ることにした。
 しかし、足音は矢口の部屋の前で止まった。
 しばらく待っても、動く気配がしなかった。
 矢口はふと、虻沼のことを思いだした。
 浦谷や虻沼には、明確な返事はしていなかった。『金を受け取るので、エビデンスは隠し通します』みたいなことは、まだ伝えていなかった。
 とはいえ、反抗的な態度はとっていないはずだ。
(誰だよチクショーこんな時間に!)
 2月の沁みる寒さの中、手にかいた汗が気化していっそ冷えた。
 矢口は震える手で眼鏡をかけ直して、ドアの覗き穴に近づいた。
 そのとき、チャイムが鳴った。
 間延びした音が、2度。
 矢口は『うわ』と間抜けな声を出し、もう1度覗き穴を見た。
 矢口は訪問者を見て驚いた。
 チェーンを外し、サムターンをひねり、ドアを開けた。
「わ、すぐ出てきましたね」
 と言って、緑川は口元をおさえた。
 グレーのコートを着て、マフラーを巻き、茶色い耳あてをしていた。毛深い動物のようだった。
「なんだよ。緑川さん、なんでこんなところに……」

関連




Amazon.co.jpアソシエイト