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kyamanekoです。IT、思想、哲学、心理学などの記事を書いています。

個人情報漏洩させたらこうなった - vol. 55

実録! 個人情報漏洩させたらこうなった

イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……

※本作はフィクションです

 

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vol. 55

 日が傾きはじめるころ、矢口は人混みの中を進んでいた。
 雨が降っていたが、傘はなかった。
 右腕が鈍く疼き、ゴムの作り物のように力が入らなかった。折れているのかも知れない。
 口の中が切れており、血の味がした。
 鼻血はまだ止まっていなかった。
 通行人は気味悪そうに避けていった。
 矢口は考えた。
 なぜ、こんなことになったのか。
 どこで間違ってしまったのか。
 そうだ、きっかけは2日前の、あのときだったか。


 2月15日の夜のことだ。
「ちょっと、話がありまして。そこまで、きてもらえませんか?」
 突然アパートにやってきた緑川は、そう言った。
「だから、なんのつもりなのか、理由を聞かせてよ」
 緑川は右手の指先で、目の前の虫をつまむような仕草をした。
「ほんと、ちょっとなので。お願いします」
 懇願してくる緑川を見て、矢口は思わず心を許した。緑川は魅力的だった。
「うーん。ああ、わかったって。ちょうど出るところだったし。で、どこで、なんの話をするの?」
 緑川はにやりと微笑んで、矢口の手を牽いた。
「おおきに。さすが矢口さん」
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
 矢口は汚れきったコンバースのハイカットスニーカーを履いて、外に出た。
 アパートの廊下を、緑川に続いて歩いた。
 風が激しく吹いていた。
 冷え切り怯えた矢口の心を、風はいっそ縮こまらせた。
 会社を辞めたという意識が、自らを孤独にしていた。
 友達もいない。彼女もいない。母とも疎遠。そんな矢口が同僚を失ったら、本当に1人になる。
 孤独には慣れていたとしても、いささか寂しい気がした。
 そんな中、緑川の来訪は矢口を喜ばせた。
 同時に、軽率な自分の行動を、恐ろしくも思った。
(なんなんだよ。浦谷社長の罠かなにかか? まあ、どうでもいいや。なにもかも。虻沼でも幽霊でもカーネルパニックでも、なんでもこい……。浦谷から金を引き出して、次の仕事を探すだけだ)

 アパートを出てしばらく歩くと、緑川は近所にある、中華料理屋の前で足を止めた。
 緑川は引き戸を開けると、矢口の背中に周り込み、ぐい、と押してきた。
 店の中から熱気と、料理の匂いが漂ってきた。
 店に入った矢口は、右手のテーブルに見知った面々を見つけた。
「寒いから、早く閉めて!」
 と、安原が言った。
 他には、加藤と仁科がいた。
「矢口さん、お飲み物は?」
 と、仁科が言った。
「いや、別に俺はなにも……」
 すると、緑川が席を指した。
「いいから、座っちゃいましょう」

 矢口は戸惑いながら奥の席に座った。
 向かい側には仁科がおり、左手に緑川が座った。
 テーブルの中心には、一番人気の四川風麻婆豆腐があった。弾力のある豆腐と、ふんだんな挽肉が使われている。奥深い辛さがくせになる絶品だ。
 ほかには、モヤシ炒めと水餃子があった。
 緑川の前にだけ、豚足の山があった。
 全員ビールやサワーなどを飲んでいたが、矢口はコーラにした。
 乾杯の音頭は、一応の年長者である安原がとった。
「あー、うまい麻婆豆腐に、乾杯」
 グラスを打ち合わせてから、緑川は言った。
「あの、もうちょっと、マシなセリフないんですか?」
「なに? うるせーな。豚足食ってろよ」
 緑川は不服そうにジョッキを置いて、豚足に手を伸ばした。
「言われなくても食べますよ。好きなんで。コラーゲンあるし」

 矢口は無言で、麻婆豆腐をとった。
 麻婆豆腐の辛味をごまかすように、コーラを口に含んだ。
 仁科が言った。
「それ、合います? 麻婆豆腐と」
「合わない」
 と、答えてから、矢口は続けた。
「それより、なんなんですか、この集まり」
 答える者はいなかった。
 そのとき、矢口はふと思い当たった。
(こいつら、藤野さんから、俺を説得するように頼まれてるんじゃねえの?)
 すると、仁科が言った。
「突然、すみませんでした。矢口さんと、じっくり話したくて。矢口さん、あんな感じで出ていってしまったので。……自分は、辞めたとは、思ってませんから。それより、申し訳ありません。自分も含めて、疑ってしまって。同僚に対して、とんでもないことをしてしまいました」
 仁科は頭を下げた。
 その様子を見た矢口の心から、先刻の疑念が多少は消えた。仁科ほど芝居が下手な人間はいないのだ。
 加藤は心配そうな視線を向けてきた。
 安原は新しく注文した油淋鶏(ユーリンチー)を頬張っていた。

 緑川は言った。
「矢口さん。1つ、伝えたいことがあるんです。辞める気かも知れませんが。これだけは、伝えたくて」
 矢口は聞き返した。
「伝えたいこと?」
「はい。先月のことですけど……。社長と藤野さんとわたしで、夕食に行ったんです。人気のイタリアンに。そこで、仕事の話になったとき、社長は言ったんです。矢口さんを、別のプロジェクトのスタッフと入れ替えられないか、って。……まあ社長なりに、色々と気を使ったんだと思いますけど。……あ、すみません。変な言い方してもうて。そこで、藤野先輩、答えたんです」
 矢口は険しい表情をした。
 その先を聞きたくなかった。
 緑川は続けた。
「藤野先輩、こう言ったんです。……矢口くんは、必要です、って」
 矢口には信じられなかった。
 矢口が無様な告白をしてから、間もない頃のはずだった。
 由加里に嫌われていたと思っていた矢口は混乱した。
「いい加減な嘘、つくなよ!」
 と声を荒げた矢口に、緑川は言った。
「先輩って、ちゃんと見てますよ。矢口さんのこと」


 矢口が入店してから、1時間ほど経った。
 矢口は苦手な酒を飲んでいた。レモンサワー1杯で酔った。
 凝り固まっていたなにかが、ほぐれつつあった。
 安原がトイレに行っているとき、仁科が言った。
「実は、秘密にするように言われてるんですが。今日、集まろう、って言ったの、安原さんなんです。矢口さんに謝ろうって。自分らは、それに誘われただけで……」
 緑川が言った。
「そうそう。だから仁科は、空手の練習休んでまで、来てくれたんです。超脳筋にも、人の心があったんやね」
「うるさいな」
 と、仁科は言った。
 緑川と仁科は同期みたいなものだった。

 デザートの杏仁豆腐がきたとき、仁科はしみじみと言った。
「不思議ですよね、会社って」
「なにが?」と、安原が聞いた。
「いえ。同僚って、不思議な存在だな、と。家族と同じかそれ以上の時間を一緒にいて、それなのにやはり、どこかに一線を引いている。しかし他人ではないし」
「だから? 結論は?」
「特に、だからどうってことも……」
 仁科は助けを求めるように緑川を見たが、杏仁豆腐に夢中だった。

 一行は会計を済ませて外に出た。
 矢口の酔いは冷気を浴びて醒めた。
 暗い夜道、冷たい風。それが現実だった。
 店の前で、「お疲れ様でした」と言い合った。
 解散する直前、安原が言った。
「しっかし、矢口ってなに考えてるか、ほんとわからねえよな」
 矢口は言った。
「なにが言いたいんですか?」
「ほんと、謎だわ」
「アンタ、喧嘩売ってるんですか?」
「……だからさ、もっと、色々、話しようぜ。次の、花見かなにかのときにでも」
 そう言って、安原は駅に向かって歩きはじめた。
 緑川と仁科は冷やかしあって歩いていった。
 加藤は、「おやすみなさい」と頭を下げた。
 矢口は帰途についた。
 雪が降りはじめた。
 コートの襟を引き寄せて、ポケットに手を入れた。ぬくもりが失われないように。


 翌日の土曜日は、なにも手につかなかった。
 17日の日曜日も、矢口はずっとそわそわしていた。
 事故の報告会は午後の4時からだった。
 矢口はずっとベッドに入り、悶々と悩んでいた。
 すべてから逃げたかった。
 同時に、仲間を助けたいと思った。
 2つの気持ちがぶつかり、分裂しそうだった。
 台所に水を飲みに行ったとき、PCデスクに置かれていたペンダントが目に入った。
 由加里のために買ったペンダントだ。
 ピンクゴールドのチェーンに、ルビーが光っていた。
 ルビーの赤は罪人を裁く炎を思わせた。
 ついで、由加里の声を思い出した。
 『自分に恥じない道を』
 やがて、想像の中の由加里の顔は、母親の顔になった。
 『泥棒なんかを、育ててきた覚えはないわよ!』


 矢口はPCとプリンターの電源を入れた。
 会社のPCから消去して確保しておいた、いくつかのドキュメントをプリントアウトした。
(チクショー、なにやってんだ俺は。狂ってんじゃねえの)
 まるで、違う誰かが体を突き動かしているようだった。
 そうした準備をしながら、桑部弁護士に電話をかけた。――しかし、7コール待っても出なかった。できれば、事前に話をしておきたかったのだが。
 矢口はバッグに資料を突っ込み、いつものコートをはおり、外へ出た。
 光が目に染みた。
 生まれてはじめて光を浴びた気がした。
 アパートの階段を降りて、路上に出たとき、背後から声がした。
「お出かけですか、矢口さん」
 そこには虻沼がいた。
「なにか、用でもあるんですか……」
「いまさら、どこ行こうとしてんだよ。裏切ってんじゃねえぞ、コラァ」
 虻沼が詰め寄ってきた。

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